
東京外国語大学学長 春名展生さん
※1 歴代の学長には、秋田にある国際教養大学(AIU)初代学長になられた中嶋嶺雄さん、ドストエフスキーの翻訳がベストセラーになった亀山郁夫さんなど、研究以外の分野でも知名度の高い先生方も名を連ねる。
目次
東京外国語大学 研究講義棟
ニューヨークでの原体験とジャーナリストの父の教え
私の原点は、4歳から小学校3年生までを過ごしたニューヨークにあります。父はジャーナリストで、家庭でも政治や国際情勢についてよく話してくれました。そのせいか、子ども心にも「世界はどう動いているのか」という関心が次第に芽生えてきたと思います。
小学校1年生からは、外交官や国連職員の子どもが通う「国際国連学校(UNIS※2)」に通いました。ここは多様な国籍の生徒が集まり、しかもアメリカ人は一人もいないという、まさに多様性の坩堝(るつぼ)。国籍も言葉も違う友だちと過ごす中で、国際感覚や、自分とは異なる他者を受け入れる精神的な土壌が育まれたと思います。またクラスメートは外交や国際関係に関心が高く、私は父の教えともあいまって、これらのテーマを生涯かけて追いかけていきたいと思うようになります。
同じ頃私は、自然破壊のもたらす環境問題にも関心を抱き始めました。当時、80年代のアメリカでは、環境問題に市民の関心が高まっていてUNISでも環境教育が盛んでした。これが大学進学にあたり、「環境問題を科学的なアプローチから解決したい」と工学部を選ぶことにつながったのは不思議ではありません。ただ、なぜ《国際政治》ではなかったのか。これは父が反面教師でもあったからです。組織人としての葛藤や窮屈さを折に触れて聞くにつけ、「父のような生き方は大変そうだ」とも感じていたからです(笑)。
※2 国際国連学校(UNIS)1947年設立。アメリカ・ニューヨーク市にある私立インターナショナルスクール。国連関係者の子どもが多く通い、多文化共生の教育環境で知られる。
NY国連学校"Waterside Plaza, Manhattan, New York City, 20231001 1059 0996" by Jakub Hałun is licensed under CC BY 4.0.
母国語を失わず、帰国子女が「英語力」を維持するための家族の戦略
ジャーナリストの父も、後に日本語教師になった母も、思考の土台としての母国語の重要性をよく理解していたのだと思います。保育園からUNISまで、英語が第一言語だった私に対して、日本語を失わせないよう会話は徹底して日本語で通しました。これが小学校4年で帰国してからは国内で過ごし、そのまま国内大学の研究者になった私にはとても重要だったと両親に感謝しています。もっとも、私以上に英語が第一言語だった二つ違いの弟とは英語で話していたため、家庭はまさにバイリンガル環境でした。
両親の次の戦略は、帰国に際して、私を当時まだ珍しかった帰国生のための編入クラス、国際学級のある小学校※3へ編入させることでした。幼少期や子ども時代を英語圏で過ごした帰国子女が、帰国後、英語力を低下させることがないようにという配慮からだったと思います。
次のエポックは中学進学時。5年生の時、私は母から、当時は今ほど盛んではなかった私立の中高一貫校の受験を勧められました。「あなたには、私立の中高一貫校に通ってもらいます」という母の言葉は、今でも忘れられません。「高校・大学受験に追われず、のびのびと学べるから」という言葉に乗せられた私は(笑)、何も考えることなく塾に通い始め、二年後にその学校に進学します。
※3 横浜国立大学教育学部附属小学校:現在では混成クラスになっているが、当時は、海外からの帰国生、編入児童受け入れのための国際学級があった。
中学・高校、大学時代は自分で英語力をブラッシュアップ
入学した学校は受験校ではありましたが、英語にも力を入れていて、授業は週5回ありました。またその頃からは自分で英語のドラマを録画し、繰り返し視聴するなど積極的に英語の勉強に力を入れるようにしていました。そして大学入学後は、積極的に留学生と交流するなど、英語を常に身近なものとするよう努力しました。
その後、大学院に進む際に文転し、国際政治に専攻を変えました。リスクはありましたが、工学による環境問題解決に限界を感じたのと、やはり国際政治の魅力が忘れられなかったからだと思います。
2008年、非常勤でしたが私は大学教員としての道を歩み始めます。ここで、英語力を落とさないようにしてきた努力が実ったと思います。そしてこの大学で、専門の国際関係(「平和論」)の授業に加えて、海外からの留学生のために用意された「英語で日本文化を教える」という新しい《仕事》も任されたのです。これがその後の東京外国語大学への就職、そして今につながるキャリアの原点になるとは夢にも思いませんでした。
勉強することよりも大事な、基本的生活習慣を身につけること
今の私を支えてくれているもう一つの教えが、生活の規律を守ること、言いかえれば、就寝時間を守ることや身の回りの整理整頓など、基本的生活習慣を身につけること。それが勉強よりも優先されたことです。
例えばテレビの視聴。帰国後まもなく、今のスマホ同様、子どもの過度なテレビ視聴が大きな問題となりました。対するわが家のルールは厳格そのもの。テレビの視聴時間は30分、しかも見るのはNHKのドキュメンタリー番組に限定です。おかげで夜更かしなどできず、就寝は8時半。学校の就寝時間調査に「8時半」と答えた私はとても珍しがられました。もっとも家に遊びに来る友達からは、「はるなんちはNHKしか映らない」とよくからかわれもしましたが(笑)。
「みんなって誰と誰のこと?」――子どもが反論できない母の決まり文句
その後日本は、テレビゲーム全盛時代を迎えます。しかし私の日常は変りません。テレビゲームに限らず、「だってみんな持ってるもん」と何かをねだっても、母親が返すのは「みんなって具体的に誰と誰のこと?」という決まり文句。反論できなかったのは言うまでもありません。このようなやり取りを通じて、「周りがやっているから」という曖昧な理由はわが家では通用しないことを学んでいったのかもしれません。
規律を守り、同時に周りに流されない意思を強固にするということは、なんでも自分の価値観で判断する力を養う訓練でもあると思います。ただ、私にとってこの訓練はあまり辛いものではありませんでした。親から強く言われたという記憶もなく、自然に習慣づけられていったように思います。
このような経験から私は、基本的な生活習慣や、物事の判断や行動の基準となる考え方は、子ども時代に自然に身につけるのが最も効率的だと思っています。そして私の場合、このことが、生きていく上での一つのアドバンテージ、生きる力の源泉になっていることは間違いありません。
「器は作るが、中では自由に」が基本――母の教えのスタイル
器を用意し、そこに子どもをリードしたら、その後は口出ししないというのが、母の教えの流儀だったようです。だから「勉強しなさい、しなさい」と口うるさくは言わない。子どもを遠いところから見守っているという感じでしょうか。とはいえ、すでにお話ししたように、これが放任主義とは異なることは言うまでもありません。ある程度子どもの進む方向性は示す、また善悪の判断は親がする。そこに理屈はいらない。それは成人するまでの子どもには自分で判断する能力はない、そのための経験と知恵がないからだと考えていたからでしょう。このことは家庭だけでなく、学校の教育方針についても当てはまるかもしれません。
もちろん、このいわば《律すること》と《自由》にさせることとの匙加減、線引きは、時代とともに変わりますから十分に議論されなければならないことは言うまでもありません。みなさんのご意見はいかがでしょうか。
春名展生(はるな・のぶお)
1993年桐蔭学園高等学校理数科卒業。1993年東京大学教養学部理科Ⅰ類入学、1995年東京大学工学部都市工学科都市計画コース進学、1997年東京大学大学院総合文化研究科修士課程(国際社会科学専攻)入学、2000年4月東京大学大学院総合文化研究科博士課程(国際社会科学専攻)入学、2008年3月同退学、2014年6月博士(学術)。2015年東京外国語大学大学院国際日本学研究院講師、2018年同准教授、2021年国際日本学部学部長補佐、2023年東京外国語大学副学長(国際、国際教育等担当)、2024年東京外国語大学大学院国際日本学研究院教授、2025年4月から現職。